三浦淳の思い踏みにじった日本代表

2006.7.3

 

 日本代表がW杯出場を決めた時のエピソードがある。昨年6月3日のバーレーン戦前に行われたUAE・アブダビ合宿でのことだった。左サイドバックの控えだったベテラン三浦淳宏は「オレは試合に出たい。だからこそ、試合に出ている人間にはしっかりやってほしい。オレは年齢的にも最後。W杯に行きたい。だから、このチームでできることをやろうと心から思っている。もっと必死にやろう」とチームに訴えた。

 ジーコジャパンはバーレーンと過去2試合戦っていたが、アジア杯では延長の末に4−3、ホームでの最終予選はオウンゴールで1−0と苦戦していた。バーレーン戦前のキリン杯でも連敗。チームの雰囲気は不安と焦燥で停滞していたが、当時、フィールドプレーヤーでは最年長だった30歳の熱い言葉がチームを1つにした。そして、バーレーン戦、北朝鮮戦と連勝し、結局は世界最速でW杯進出を決めたのである。

 

 日本代表はドイツで惨敗した。そこには三浦の名前はなかった。果たして選ばれた23人の中で、あれほどまでに「W杯に出たい」と訴えていた三浦に胸を張って「必死にやった」と言えるのは何人いるだろうか。ピッチに出た選手は動けなくなるほど走り回ったか。出番の少なかった選手はチームのためにできる限りのことを尽くしたか。

 

 ジーコジャパンの本大会メンバーは、フィールドプレーヤーは29歳が24歳までの近い年代で構成されていた。メンバー固定の方針から主力に危機感はなかった。控えの選手は「オレたちが出た方が強い」というプライドがあった。年齢が近い分、ライバル意識も相当で、その気持ちがレギュラーに刺激を与えているうちは良かったが、やっかみへと変わった時、全体の足を引っ張ることにつながった。

 

 02年、トルシエ監督はFW中山とDF秋田のベテランコンビをW杯メンバーに加えた。控えだったが、彼らの練習に取り組む真摯(し)な姿勢が主力に活を入れ、控えのストレスを封じ込めた。ドイツには三浦も中山も秋田もいなかった。チームは一丸となれないまま終わった。ジーコ監督が「歴史を変えられるジェネレーション」と期待した世代は、技術はあっトも精神的には成熟していなかった。

 

文:スポーツニッポン運動部 内藤博也

 

http://www.sponichi.co.jp/wsplus/column_j/08533.html

 

 

 

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