一流を育てる

 

 

豹変してこそ名将なり

洪明甫(サッカー韓国代表)を導いた監督たち【1】…ヒディンク氏

 電話は、ことし3月のスペイン遠征の数日前だった。洪明甫(ホンミョンボ)(33)の浦項の自宅に、韓国代表チームのコーチからかかってきた。

 「遠征に招請する」

 この一言で洪明甫の生活は、やっと「ワールドカップ(W杯)モード」に切り替わった。

 まず頭に浮かんだのは、昨年12月の済州島での韓国−米国戦だった。洪明甫の定位置であるリベロ(守備の司令塔)に、前半は柳想鉄(ユサンチョル)、試合途中から宋鍾国(ソンジョングッ)が起用された。韓国は米国に1−0で「完封勝ち」した。

 試合後、監督のフース・ヒディンク(55)は言った。「柳と宋の交代は万一の負傷に備えてのもの。頭の中ですでにベスト11は決まった」。洪明甫は構想外だ、という意味だった。

 洪明甫はこの試合を自宅でビデオ観戦している。01年夏に左スネを疲労骨折して以来、代表から遠ざかった。02年に韓国に戻ったが、「全員が自信をもっていた。強くなった代表を見て実は50%の焦りを感じていた」。この「50%の焦り」を「50%のあきらめ」と読み替えてもいいだろう。だからこそ、W杯3カ月前の「明甫復帰」という突然の戦力変更は劇的だった。

 ヒディンクは98年のW杯フランス大会で自国を4位に導いたオランダ人。指導者ヒディンクを考えるとき、「論理」と「豹変(ひょうへん)」がキーワードになる。

 まず「論理」。01年1月。外国人として初めてW杯韓国代表を率いると、同時に「欧州理論サッカー」を持ち込んだ。代表チーム初練習後の会見で、いきなりW杯予選突破の「処方箋(せん)」を披露した。

 「高い運動能力で速いサッカーを展開するがバランスが悪い」「地道、献身的なプレーが多く、戦術的な位置取りを誤る傾向がある」。これらを克服すれば勝てる、と。そして結論は「サッカーはロジックだ」。

 練習ではパス、位置取りをすべて理論づけて説明した。チーム専属の医師、トレーナー、戦力分析官を新設。体力一辺倒だった韓国サッカーに「合理性」を導入した。選手は「身体より頭が疲れる」とこぼした。

 「豹変」は、01年5、6月の国際試合3連戦が象徴した。練習を積んできた4−4−2の布陣を対フランス、メキシコ、オーストラリア戦で、すべて変えた。ヒディンクは言い放った。

 「いつもいつも考えているから、戦術も変わる」

 そして、洪明甫を代表に復帰させたことだ。ここへきて、対チュニジア、フィンランド、トルコ、コスタリカ、中国の5試合を無失点で切り抜け、2勝3分け。洪明甫はDFライン、ゲーム、そしてチームの「空気」さえをコントロールした。

 彼はかつて、ヒディンクのことを「僕の体験したサッカーをすべて理論付けてくれる」と語った。「いつ首を切られるかわからない監督は、勝つためにはどれだけ冷徹になってもかまわない」と言ったこともある。

 そして、いま言う。「ヒディンクで韓国サッカーも僕も大きく変わるのは間違いない」

 洪明甫はW杯日韓共催を体現するかのようだ。彼ほど日韓の異質な監督たちに導かれた選手はいない。

2002.5.11 Asahi.com  柏レイソル通訳・高橋建登 氏

 

 

責任を持たせて任せる

洪明甫(サッカー韓国代表)を導いた監督たち【2】…西野朗氏

  柏レイソルに移籍して1シーズンが終了した99年12月、洪明甫(ホンミョンボ)(33)は西野朗(あきら)(47、現ガンバ大阪監督)に監督室へ呼ばれた。

 「来シーズンはキャプテンをやってくれないか」

 98年から西野を迎えた柏は、99年ナビスコ杯は制したものの、Jリーグでは2ステージ続けて4位に終わっていた。才能ある若手選手が多く、練習にも取り組むが接戦に弱い。必要なのは、苦しい展開の試合ですべき事を示し、勝利に導く精神的支柱だった。

 その支柱役を、西野は洪明甫に託した。日本語が話せない主将に責任を持たせる。指導者としては、大きな賭けだった。

 洪明甫はしばらく考えたあと、こう答えた。

 「やる以上はこうやりたい、ということがあります。僕の勝負に対する厳しさを前面に出してもよければ」

 Jリーグで外国人選手が本格的な主将を務めた例はなかった。日本人との「あ・うん」の呼吸がわからない。母国代表として試合を抜けることも多い。それでも、西野はあえてシーズンを預けたわけだ。

 「コミュニケーション」を重視する西野は、洪明甫主将に試合前のミーティングで必ず「ひとこと」を求めた。

 応じた洪明甫は、日本語の「壁」を逆手に使いながら、つねに「日本人選手の心を読む」ことに努め、最も効果的な言葉で選手を鼓舞していった。

 「みんな、自分がやらなくても、だれかがやってくれる、と思っていないか」

 「勝負の世界には2位はいらない。2位にあるのは慰めの言葉だけだ」

 日本人の心、表情、精神状態を読む努力が、洪明甫にとって試合中の情報収集力の向上につながっていったのは興味深い。守備では相手のFW陣の意図や次の動きを読み、攻撃でも敵の守備の穴を察知しやすくなった。味方とも表情や顔つきで意思疎通ができた。言い換えると攻守両面で「先を読める明甫」が誕生した。

 言葉で指示できない主将は、洪明甫が言うように、「自分がやらないとなにも始まらない」ことを身をもって知った。

 洪明甫が主将になった00年、柏は第2ステージで最終戦まで鹿島と首位争いを演じ、勝ち点1の差で2位になった。年間最多勝を記録して、西野はJリーグ最優秀監督に選ばれた。

 洪明甫は振り返る。

 「言葉の通じない国で、キャプテンを任されるなんて願ってもできない。人は任されると期待に応えないと、とがんばるものだ」

 責任を持たせた西野も、責任を持たされた洪明甫も、ともに良い結果を生んだ。「任せる」ことの好例が、日韓両国にまたがって存在したわけだ。

 「明甫は日本にいってから先輩に気を遣わなくなった」と韓国サッカー協会の幹部が嘆いたことがある。

 上下関係に固執し、個人がなかなか自立しない点が問題視される韓国サッカー界ならではの批判ともいえる。それは「洪明甫は日本に移籍したからこそ脱皮できた」ことの裏返しでもあるだろう。

 01年シーズン後、柏との契約が切れ韓国に戻ることになった洪明甫は、自分の写った写真パネルを11点つくった。そのうちJリーグ関係者に渡したのは、ただひとつだけ。それが、西野だった。

2002.5.18 Asahi.com  柏レイソル通訳・高橋建登 氏

 

 

見続ければ分かる才能

洪明甫(サッカー韓国代表)を導いた監督たち【3】…南大植氏

  洪明甫(ホンミョンボ)(33)は大学3年になる直前の高麗大学、南大植(ナムデシク)監督(53)との会話を宝物のように覚えている。

 「スイーパーをやってくれ」

 「スイーパー?」

 いぶかしげな顔でいると、南大植はたたみかけた。

 「賢いやつしかできない。おまえなら新しい形のスイーパーになれる」

 高校時代から「逸材」と言われ、87年に入った高麗大では、1年生からレギュラー。攻撃型MFとして、韓国代表を意識しだしたとき、「攻撃」から「守備」への転向を通知された。

 スイーパーとは最後列にいて、DFをカバーし、こぼれ球を処理する。防波堤のような役目だ。地味な役割だが、南大植はこう伝えた。

 「守備だけでなく、後ろから見ていて好機があればいつでも上がって攻撃に参加しろ」

 才能を見極めて適材適所を与える指導者。そのチャンスを生かそうと努力する選手。二者の呼吸が合って初めて「天職」が生まれる。

 南大植は洪明甫をスイーパーに起用した理由を振り返る。

(1)パスミスがほとんどなく、視野が広い(2)状況判断が的確で、自由に動かしたほうが得点機を作る(3)ここ一番に思い切りがいい(4)一対一には弱さがあり、混乱で身体接触を嫌う――

 そして、こう付け加えた。

 「才能は、ずっとずっと、ただ見続けていれば、わかる。そこが指導者としてやっていけるかどうかの分かれ目です」

 洪明甫がめざした「新しい形のスイーパー」こそ、欧州で「リベロ」と呼ばれるポジションだった。イタリア語で「自由」を表す言葉通り、DFだけでなく、機をみて自由に攻撃に参加し、決定的なプレーを生む。

 74年大会のベッケンバウアー(西ドイツ)が元祖とされ、78年大会のパサレラ(アルゼンチン)、82年大会のシレア(イタリア)と、W杯優勝チームには必ず優れたリベロがいた。

 選手とポジションとの出会いの裏には、指導者の目と同時に、選手自身の努力がある。

 「やってみると、MFよりリベロのほうが攻撃に絡める機会が出てくるのに驚いた。後ろから見ていると、相手の穴がよく見え、飛び込んでいくとおもしろいように点が取れた」

 さらに、「リベロ」は洪明甫に思わぬ贈り物をくれた。

 90年のイタリアW杯予選。韓国はFW、MF陣は崔淳鎬(チェスノ)(現韓国・浦項監督)らで層が厚かった。手薄なDF陣に回ったことで、洪明甫は補欠ながら代表入りを果たす。さらにW杯本番、レギュラー選手の負傷で、初戦の前日、「先発」を言い渡される。

 W杯一次リーグではベルギー、スペイン、ウルグアイ戦にフル出場した。すべて敗れたが、「世界の壁は思ったよりも高くない」という実感とともに帰国する。「欧州強豪のプレーがすべて自分の予測範囲内だった」という収穫だった。

 「リベロ」は洪明甫を韓国から連れ出し、「世界レベル」を身近に感じさせ、自信まで与えた。そして02年の日韓W杯では「4大会連続出場」「代表初主将」という「勲章」もくれる。

 洪明甫は言う。「ポジションを天から授かった」

2002.5.25 Asahi.com  柏レイソル通訳・高橋建登 氏

 

 

運ある奴をリーダーに

洪明甫(サッカー韓国代表)を導いた監督たち【4】…金浩氏

  93年10月28日。日本の「ドーハの悲劇」は、韓国では「ドーハの奇跡」と呼ばれている。その陰には「洪明甫(ホンミョンボ)バッグ事件」があった。

 カタールの首都・ドーハであった94年ワールドカップ(W杯)米国大会アジア最終予選。日本はこの日の最終戦のイラクに勝てば、初出場が決まる。

 日本が2−1とリード……。そのとき、韓国は同じドーハで北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と戦っていた。勝っても、日本がイラクを下せば、本大会進出が断たれる状態だった。

 事件はハーフタイムに起こった。前半の0−0というふがいなさに、金浩(キムホ)監督(57)、現韓国・水原監督は怒った。ロッカールームに帰ってくるやいなやバッグを蹴(け)飛ばし、それが洪明甫(33)に命中した。うずくまる洪明甫に、金浩は次々に厳しい言葉を浴びせ続けた。

 後半、韓国は変わった。見違える動きで3点を奪い、快勝した。誰ひとり喜ばない「勝利」だった。直後に、日本がイラクと2−2で引き分けたとの情報が韓国ベンチに伝わった。「悲劇」と「奇跡」が交錯した。

 チームを変えるには、まず中心選手を変える。金浩はほかの選手に最も影響力を持った選手を、わざと叱責(しっせき)し、チームを一変させたわけだ。

 「あの試合の前半まで明甫は思春期だったのかもしれません」と笑いながら、金浩は振り返る。「才能、ポジション、経験、それに誠実さ。どれをとっても明甫が軸だった。彼をやる気にさせれば、その気持ちは自然とチーム全体に伝わった」

 94年のW杯、洪明甫は初めて「リーダー」という使命を背負い、その期待に応えた大会でもあった。初戦のスペイン戦は、0−2とリードされながら、洪明甫のW杯初得点とアシストで加点し、引き分けた。続くボリビアも守備陣の柱として踏ん張り、0−0で引き分けた。

 決勝トーナメント進出をかけたドイツ戦は、前半で0−3とリードされた。主将の負傷を受け、後半のピッチでは洪明甫がW杯で初めてキャプテンマークを腕に巻いていた。その後半、洪明甫は「ゴールを見た瞬間、シュートコースだけが鮮明に見えた」というロングシュートを決めた。14本−24本。優勝候補のドイツの倍近いシュートを繰り出し、韓国は2−3まで追い上げた。

 敗れたが、その日のうちに、欧州のクラブ関係者からスカウトされた。翌日にはドイツ、スペイン、それに日本のチームからもオファーが来た。洪明甫が世界的に一流選手として認められた瞬間だった。

 「リーダー」と「運」。この二つについて、90年イタリア大会で、当時大学生だった洪明甫を韓国代表に抜擢(ばってき)した李会沢(イフェテク)監督(55)=現韓国・全南監督=は言う。

 「運のある奴(やつ)をリーダーにすることだ。実力、才能なら明甫を上回る選手は何人かいたが、彼の運を信じた」

 そして、「時として監督が選手の運に乗ることもある」とつけ加えた。

 洪明甫は02年のW杯を「最後のW杯」だと明言する。韓国の初戦は6月4日、釜山でのポーランド戦。彼はキャプテンマークを腕に、ピッチに立つ。「韓国悲願の1勝」をもぎ取るために。

2002.6.1 Asahi.com  柏レイソル通訳・高橋建登 氏

 

 

〜コーチングプロひとこと〜

「喝」に「活」の作用

 コーチングの基本は美点を伸ばす「ほめ育て」だが、チームスポーツの中で、監督と中心選手との間に信頼関係のある時には、厳しい叱責も有効になる。指導者が怒りに任せて「喝」を入れるのは、単なる「恫喝(どうかつ)」にすぎない。選手の可能性を信じて、最も期待できる選手に、「活」のエネルギーをこめた指導を行うことが、個人の成長やチーム全体のブレークスルーにつながる場合もある。

(学習学協会代表理事・本間正人)

 

 

 

 

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